カーネーション


憂鬱な話をひとつ思い出した。ぼくはそれを記憶しているが、 それがどこかから聞いた話なのか、どこかで読んだ話なのか、 それとも自分で体験したことなのかを憶えていない。 あまりに悲しい話なので、 心が勝手に忘れたがっているのかもしれない。 それともただの勘違いなのかもしれない。 とにかくそれは五月の話であることだけは確かである。

それを思い出したのはやはり五月のことで、 その時ぼくはいろいろと買いものをしていた。 レジに並ぶと、隣に置いてある小さなカゴに造花がたくさん差してある。 薄いピンク色のカーネーション。そういえば、母の日というものが近づいている。 清算の直前、自分の買いものカゴに一本それを放りこんだ。 そしてレジで清算を終え、思い直してもう一本買った。 二本のカーネーションの造花。これなら枯れないから、 遠く離れてる母親のひとに贈るのにも問題はなさそうだ。 それに、そんなに逼迫はしていないけれども、 本物の花を贈るほどの余裕があるわけでもない。 一本は母親のひとに、そしてもう一本は、 母親のひとが自分の母親である祖母のひとに贈るために。 すべての母であるひとへ向けて感謝を述べるための日として、 五月の第二日曜日は設定されているのだ。 少し探せばあちこちに「おかあさん、 ありがとう」と全部ひらがなで書かれたポップなどが見られる。

小学校の頃、まだ自転車に乗るのが楽しくてしょうがなかった頃に、 少し離れたスーパーにくっついているような、 そんな小さな花屋で赤いカーネーションを買ったことがある。 適当な花瓶がなかったのでなにかの飲料水の瓶に差しておいた。 なぜか長いこと枯れなくて、ずっと咲いていた。 おかげで赤いはずのカーネーションの色がすっかり飛んで、 薄いピンク色になってしまった。このことはよく憶えている。 「おかあさん、ありがとう」の力がいつまでもテーブルに残っていた。 そんな強い花を自分の手で選んで来たことが無邪気に誇らしかったし、 母親のひとが喜んでいたことも憶えている。

母親のひとは強い人だった。たくさんの苦労もして来たし、 その苦労に立脚した哲学を持っていた。ただ問題は、 自分がそう考えたことはすべての人にも適用可能だと思いがちなことであった。 そのこと自体はまあよくあるおばさん気質ではあるのだが、 それも強烈になると周囲への影響も高まってくる。 いろいろと気の強さが先に立ち、 自分の信念を貫くための言葉を容赦なく叩きつける。 それが本当に正しいことであったとしても、 正しすぎる意見は人を不快にさせることもある。 そしてたとえ間違っていたことだとしても、 それを迫力で押し切って道理を引っ込ませるくらいの強さは 軽く持ち合わせている人だった。私は苦労して来たから、 頭はよくないけれど生きるために強くなって来た、とよく言っていた。

子どもというのは馬鹿だから、 ある程度まで成長しないと自分がおかれている環境に疑問を持ったりはしない。 少なくともぼくは充分に馬鹿な子どもであった。 学校は休んではいけないところだし、少々の熱が出てもくじけてはいけない。 成績がどうこうはともかく、 人に迷惑をかけてはいけないということを強調されて育っていった。 そして、とにかくいろんなことを頑張れ、と。


そんな馬鹿な子どもだったころの、 あやふやな記憶のかけらを思い出した。 板ばりの床に叩き付けられ、踏みにじられた細いカーネーションの花束。 水にも差さないままの花が二、三本、 おまけみたいなかすみ草と一緒にフィルムにくるまれたもの。 生花とはいえそんなに高いものではないだろう。 薄いピンクだったような気がする。少なくとも、 強いカーネーションを買った 誇らしい自転車少年だった年の話ではないことだけは確かだ。

何かがうまくいっていなかった。 その問題の内容はぼくにあったのかもしれないし、 家族の誰かのせいだったのかもしれない。家族が悪いのではなく、 なにか仕事のトラブルがあったのかもしれない。 それはぼくが知っていたことなのかもしれないし、 ぼくが知らないところで起こっていたなにかだったのかもしれない。

カーネーションを蹂躙していたのは母親のひとだった。 小さかったぼくはとても悲しかったけれども、 板ばりの部屋でよかった、じゅうたんの居間だったら後の掃除が大変だ、 などということも妙に冷静に考えていたような気がする。 どうしてそんなことになってしまったのかは憶えていない。 だけど、鮮烈な印象として残っている。

母親のひとは何かに怒っていた。 こんな花を買うくらいならもっと金の使い道があるだろうに、 とかいうことを言われたような気もする。 生まれてからずっと商売しかしたことのない人だし、 それくらいのことは言うかもしれないな、とは今でも思う。 しかし深いことは何も憶えていない。 そこでぼくの記憶はふっつりと途絶えていて、 何があったのかをどうしてもこれ以上思い出すことができない。 薄いピンク色のカーネーション。 あのとき生けてもらえなかったかわいそうな花はどこにいったのだろうか?

思い出と言うにはあまりにも断片的で、 ひょっとしたら夢かなにかだったのかもしれないとも思う。 テレビかなにかのイメージがそのまま間違って記憶に残ったのかもしれない。 いくらなんでも子どもが贈った「おかあさん、 ありがとう」の細い花束を目の前で踏みつけるようなことは、 どんなに気の強い母親のひとでもさすがにしないのではないだろうか。 だけど結局,この記憶はどこから来たかもわからず、 そしてどこにたどりつくこともなく行方知れずになったまま放置されている。


その後いろいろあって、馬鹿な小学生だったぼくは馬鹿な中学生になり、 そして順調に馬鹿な高校生になっていった。 中学生のころから睡眠障害を患いかけていたぼくは、 高校の頃には見事に循環気質の罠にはまり、鬱状態になっていった。 授業に出ても眠くてしょうがないし、そのことがなおさら劣等感を増幅させる。 教室のある四階の窓から下を見下ろすと、 手を伸ばせば届くような気がして、そのまま落ちても別にいいや、 くらいの気持ちでいたりしたのだった。

しばらくたってから首を吊ってみたりした。 ロープとして使った電気のコードは切れなかったけれども、 蛍光灯を吊ってあるフックごときでは 体格のいい不健康な男子高校生の体重なんて支えきれるはずもなく、 フックごとぼっとりと落ちてしばらく自分の部屋の床に倒れて目を回していた。 身体がとても熱かったことと、 頭を揺さぶられるようなめまいが起こったことを憶えている。 誰にも見つからなかったと思うし、 わざわざ親のひとたちに言うことでもない。 言えば理不尽な叱られかたをするだろう。 そんなことはおかしくなりかけて弱った頭で考えても 充分すぎるくらいにわかりきった話だった。

高校からは退学勧告が出ていたらしい。 他の学生たちに悪影響を与える、 実際にぼくの友人たちはぼくの心配をするあまりに成績が下がって来ています、 という名目だったらしい。もちろん親のひとたちは学校に反発し、 ぼくを卒業させるようにと猛烈に抗議していた。 特に母親のひとは激しく先生たちに食い下がり、 いろんな無茶をしたり無茶を言ったりしたようだ。 すべてはぼく自身とは関係ないところで行われていた。 ぼくはただ、行くべき日に病院へと出向き、 毎日目をつぶって何かにすがるように、 本当は別に服みたくもない薬をせっせと口に運んで いた。

特に母親のひとは病院が嫌いだった。 歯医者と産婦人科以外に病院にかかったことなどないことが自慢であり、 どんなに体調が良くなくても、たくさん食べてよく寝ればあとは気力で治す、 というタイプの人間だった。黙々と薬を服むぼくのことなど、 異世界の生物を見るような目で見つめていたのではないだろうか。

親のひとたちとはいろんな話をした。弱りきっているぼくを喝を入れるために。 頑張れがんばれ、おまえには頑張りが足りない。 母親のひとはとくに強い人だったから、 自分がどれだけ頑張って来てこれまで生きて来たか、 強さのサンプルをたくさん並べてくれた。 サンプルはいくらでもあった。毎日話して聞かせてくれても、 いつまでも尽きないくらいに。

その強さにあてられて、ぼくはどんどん弱りきっていった。

何度かの自殺未遂のあと、親のひとたちはさらにぼくに話を聞かせてくれた。 とにかく対話をして、ぼくをまっとうな人間にしようと懸命だったのだろう。 口調はどんどんきついものになっていった。 ぼくはただうつむいて話を聞くだけで、 口ごたえをするような気力なんてどこにもなかった。それは対話ではなかった。

「そんなに死にたいのか?」

ぼくには答える力なんてなかった。

「じゃあ、死んだらいい。誰にも迷惑のかからないような場所に行って、 ひとりで死んだらいい」

ぼくには答える力なんてなかった。

「おまえは失敗だった」

ぼくには答える力なんてなかった。

「死にたいなら、連れていってやる。車に乗せて、山奥にでもどこにでも。 人に迷惑だけはかけるな。おまえは、死ねばいい。死んだ方がいい」

ぼくには、なにか答える力なんて、どこにもなかった。

この対話がどんなふうに終わったのかも、やっぱり思い出せない。 いつものように、もう寝る時間だから、明日も仕事があるし、 ということでなんとなく終わったのだろう。 深夜、テレビの放映がなくなるくらいの時刻まで、 そういった家族の対話が毎日続いていた。 それはあまりにも日常すぎて、 話がどんなふうに始まってどんなふうに終わるなんて いちいち憶えていられなかったのだろう。しかし、 自分を作ったふたりの人間から、おまえは死んだ方がいい、 と言われたということはよく憶えているし、 当時ぼくがいろいろ書き殴った落書きなども残っている。 このことは悲しいけれど、本当にあった出来事のようだ。 淡くてあやふやな記憶のようなもの、などではないらしい。

本気で言ったのか、 しょぼくれた自分たちの子どもに気合いを入れるための言葉だったのか。 そんなことはどうでもいい話だ。 なんだかんだでかろうじて馬鹿な大学生になって、 家族の元を離れてひとりで暮らしている今でも、 あの言葉の真意なんて本当にどうでもいいと思っている。 ただ、時々実家に顔を出して、なごやかな家族として過ごす時も、 ちゃんとひとりで生活できているかどうかなどを尋ねられる時も、 どんな時も 「ああ、だけどこのひとたちはぼくに死ねと言ったことがあるひとたちなんだなあ」 という思いが必ず頭をかすめる。それだけだ。

あの頃のことを、親のひとたちと話すことは、今ほとんどない。 親のひとたちは忘れたがっているのだろうか。とくに母親のひとは、 あの頃のことはなかったことにしたがっているような気がする。 ぼくがあまりにも壊れていた頃のことを。その割には、 自分が無理を通さなかったらお前は高校を辞めさせられていただろう、 そうだったらお前は中卒で就職してたんだ、 などということは時々口にするけれど。 ぼくはあの頃のことが忘れようもなく、今もこんな文章を綴っていたりする。


五月になってなんとなくカーネーションの造花を買った。 そしてほとんど忘れかけていた、 踏みにじられたカーネーションのイメージがよみがえってきた。 少し吐き気がした。でも結局あれは本当に起こった出来事だったんだろうか。 今でもよくわからない。誰かに問い質そうという気も、まったくない。

そして今週の日曜日は母の日である。せっかく買ったことだし、 実家に郵便で送ろうと思っている。 淡い記憶の中のカーネーションが実在したかどうかはわからないけれど、 この安い造花なら、踏まれて捨てられても、別に惜しくはない。

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